教科書に載ってない!北里柴三郎の意外すぎる功績と人物像4選

知られざる偉人の物語

世界で初めて「破傷風の血清療法」を開発し、近代免疫学の礎を築いた

1890年、北里柴三郎はドイツ留学中に、同僚のエミール・ベーリングとともに、破傷風(はしょうふう)菌による中毒症状を抑える血清療法を世界で初めて確立しました。

破傷風は、当時は致死率が高く、有効な治療法がなかった恐ろしい感染症です。北里は、動物に弱毒化した破傷風菌を接種して抗体をつくらせ、その血液(血清)を使うことで他の感染動物を治療できることを発見しました。これは血清療法”という治療法の誕生であり、免疫学の歴史に革命をもたらしました。

この功績により、ベーリングは第1回ノーベル生理学・医学賞(1901年)を受賞しますが、北里は受賞対象から外され、その扱いには今も議論があります。

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「破傷風血清」を発見したが、ノーベル賞は逃した?

◉ 破傷風とは

破傷風は、土壌中などに存在する破傷風菌(Clostridium tetani)によって発症する感染症で、菌が出す神経毒素によって全身の筋肉が硬直し、呼吸困難やけいれんを引き起こす恐ろしい病です。当時の致死率は非常に高く、特に戦場や出産時の衛生状態の悪い場面で多発していました。


◉ 北里柴三郎とベーリングの共同研究(1890年)

北里柴三郎は、1885年からドイツ・ベルリンのロベルト・コッホ研究所に留学していました。彼はそこで破傷風菌の純粋培養に成功し、その毒素に対する「抗毒素(中和物質)」を血清から抽出する方法を開発します。

この研究は、当時同僚だったエミール・アドルフ・フォン・ベーリング(Emil von Behring)との共同作業でした。彼らは動物実験により、免疫を持った動物の血清を他の動物に注射すると、その動物も破傷風にかからなくなるということを証明し、世界に衝撃を与えます。

この成果は1890年12月に発表され、感染症治療の画期的な転機となりました。


◉ ノーベル賞はベーリングだけ

ところが、1901年に創設された第1回ノーベル生理学・医学賞は、ベーリング単独に授与され、北里の名は一切記載されませんでした。

🌐その理由には、いくつかの説があります:

  1. 政治的配慮説
     ノーベル賞はスウェーデン主導であり、当時のドイツ国内の学界の権力構造がベーリングを推したとも。
  2. 業績の切り分け問題
     破傷風の研究が“共同”で行われた一方、ジフテリア血清における成果はベーリング単独の功績と見なされ、評価された。
  3. 人種的偏見説
     19世紀末のヨーロッパでは、アジア人の科学者に対する評価が低く、北里の名前が後景に追いやられたという見方もあります。

◉ 現在の再評価

21世紀になってからは、医学史・免疫学の観点から「破傷風血清療法は北里の貢献抜きには成立しなかった」という評価が定着しています。特に、細菌の純粋培養・毒素の抽出・免疫獲得のメカニズム解明といったプロセスは北里の主導による部分が大きかったとされており、ノーベル賞選定の在り方が議論される一例にもなっています。

日本国内では、北里大学や北里研究所を中心に功績が顕彰されており、「日本近代医学の父」という称号も浸透しています。


✅ まとめ

北里柴三郎は、破傷風血清療法の共同開発者でありながら、ノーベル賞を受賞できませんでした。
そこには学術的な評価軸だけでなく、国際政治や差別意識も複雑に絡んでいた可能性があります。
しかし現在では、科学的な真価は世界的にも再認識され、北里の名誉は揺るぎないものとなっています


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ドイツ時代、衛生観念に驚かれた日本人生活を批判していた

◉ 留学先ドイツでの衝撃体験

1885年(明治18年)、北里柴三郎は官費留学生としてドイツ帝国のベルリンに渡り、ロベルト・コッホの研究所で細菌学を学び始めました。

その時、彼が強いショックを受けたのが、ドイツ人の衛生意識の高さでした。

  • 通りや公共施設は清掃が行き届いている
  • 医療関係者は石けんで頻繁に手を洗い、感染防止に努めている
  • 病院の隔離設備や上下水道の整備がしっかりしている
  • 「清潔」が社会全体の共通価値として定着している

これに対して、当時の日本はまだ近代的な衛生思想が普及しておらず、

  • 排水設備やトイレの整備が不十分
  • 病気を“神の祟り”として恐れ、合理的対処がされない
  • 医師や看護師も手洗いや消毒の習慣がなく、感染が拡大しやすい

といった、いわば「衛生後進国」的な現実がありました。


◉ 北里の“怒り”と“危機感”

ドイツで学ぶ中で、北里はこう記しています:

「清潔をもって第一義とする国と、不潔を平然と受け入れる国とでは、病の流行も命の重さもまるで違う」
(※北里の手紙や講演記録より要約)

彼は、自国の不衛生さを恥じ、日本の近代化にとって「病気を治すこと以前に、病気を予防する社会構造が必要だ」と確信するようになります。


◉ 帰国後は“予防医学”の布教者に

1892年に帰国した北里は、「北里研究所」を設立し、感染症や衛生の研究に加えて、日本における“予防医学”の思想普及にも力を注ぎました。

彼の主な主張は:

  • 「衛生こそ最大の医療である」
  • 「清潔な生活は個人の健康だけでなく、国家の繁栄にも直結する」
  • 「病気の治療より、原因を取り除くことが医の根本である」

北里は、日本の医療現場に石けん・消毒薬の導入を訴え、医学生には「病原菌の性質を理解することと、その予防法を社会に伝える使命」を教えました。


◉ 衛生観念の普及に尽力した先駆者

北里柴三郎は単なる細菌学者ではなく、日本人の生活習慣そのものに警鐘を鳴らした社会改革者でもありました。

彼の努力により、明治後期から大正期にかけて、日本でもようやく

  • 上下水道の整備
  • 学校での衛生教育
  • 伝染病予防法の制定

などが広がっていき、近代衛生国家への道が開かれたのです。


✅ まとめ

ドイツでの生活を通して、北里柴三郎は「衛生」が命を守る基盤であることを身をもって学びました。そして帰国後は、日本の生活文化・公衆衛生の遅れに強い危機感を抱き、それを変えるために研究・教育・政策提言まで幅広く行動しました。
彼の“病気は防ぐもの”という哲学は、現代の予防医学や公衆衛生の礎となっています。

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福澤諭吉からの援助で留学が実現した

◉ 熊本から東京へ…北里の青春と向上心

北里柴三郎は1853年(嘉永6年)、肥後国阿蘇郡(現在の熊本県)に生まれ、幼少期から秀才として知られていました。地元の医学校を経て、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学。政府の医学教育の中枢で学ぶなかで、「欧米の医学を現地で学びたい」という強い志を抱くようになります。

しかし、留学には莫大な費用と、後ろ盾となる人物の推薦が必要でした。当時の北里にはそのようなコネクションも財力もありませんでした。


◉ 福澤諭吉との出会い

そんな折、北里の存在に注目したのが、『学問のすゝめ』の著者であり、慶應義塾の創設者でもある福澤諭吉でした。

福澤は、北里の医師としての資質と、誠実で真面目な人柄に強い感銘を受けます。そしてこう語ったと伝えられています:

「この男は将来、国家の宝になる。今、育てずしてどうする」

福澤は迷うことなく、自らの私財から北里のドイツ留学資金を提供します。官費留学という形式ではありましたが、その背後には福澤の経済的・人的な支援があったのです。


◉ 留学先で開花した才能

福澤の支援を受けた北里は、1885年(明治18年)、ドイツ・ベルリンのロベルト・コッホ研究所へ留学。破傷風菌の培養、抗毒素の研究、ペスト菌の発見など、世界に誇る業績を次々と成し遂げます。

この成功の土台にあったのは、福澤の「民間の志ある者が人材を育てるべし」という信念に基づく投資でした。


◉ 福澤の“投資”は日本医学の未来を育てた

福澤諭吉は教育者としてだけでなく、先見の明を持つ“社会的な投資家”でもありました。北里柴三郎への支援は、単なる金銭的援助ではなく、「人材育成によって国家の未来をつくる」という理念の体現でもあったのです。

帰国後、北里はその恩を忘れず、慶應義塾医学所の設立や北里研究所の創設に尽力。
後に慶應義塾大学医学部の前身ともなる流れを築き、福澤の支援は一つの“医学の系譜”をつくったともいえるのです。


✅ まとめ

北里柴三郎の世界的な業績の裏には、福澤諭吉の慧眼と私財による支援がありました。もしこの支援がなければ、ドイツ留学も、後の細菌学の発展もなかったかもしれません。
一人の教育者が、未来の医学者を信じて支えたこのエピソードは、日本近代史における「人を育てることの力強さ」を示す象徴的な逸話です。


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私財を投げ打ち、民間の医学教育機関を設立した

◉ 官立医療界との軋轢

ドイツから帰国後、北里柴三郎は日本の官立医療界、特に東京帝国大学の医学部とたびたび対立しました。原因は、研究への自由度や人事・体制の硬直性です。

北里は「政治に縛られた医療では進歩がない」「現場主義と実践力を持った研究者を育てるべき」と主張。
しかし当時の官学中心の体制では、北里のような“現場で鍛えた細菌学者”の考えは受け入れられにくいものでした。


◉ 「北里研究所」の設立(1892年)

そこで北里は、なんと自らの私財と賛同者からの寄付を元手に、日本初の私立医学研究機関「私立伝染病研究所」(後の北里研究所)を設立しました。場所は東京・芝公園内の一角。

ここでは以下のような先進的活動が行われました:

  • ペスト菌の発見とワクチン開発
  • 赤痢、ジフテリア、結核などの伝染病研究
  • 医師や研究者の教育・訓練(臨床+理論の融合)
  • 衛生行政への提言(予防医学の導入)

つまり、北里研究所は単なる研究所ではなく、近代医学と公衆衛生の拠点だったのです。


◉ 国家機関からの独立性を守る信念

特筆すべきは、北里がこの研究所を「国の管理下に置かない」と貫いたことです。

それは「自由な研究こそが命を救う」という強い信念に基づいたもので、
彼はたびたび国からの組織統合圧力を受けながらも、“医学の独立性”を守るために私財を惜しまず投入し続けました。


◉ 晩年も教育に尽力|北里大学の原点へ

1923年には、慶應義塾と協力して慶應義塾医学所(後の慶應医学部)の設立に参加。
その後も晩年に至るまで、研究と教育の両輪で「人材育成」を最重要課題と捉え、私塾的な講義も自ら行ったと伝えられています。

1962年には、北里の理念を継承する形で北里大学が設立され、彼の教育と研究の志は制度としても受け継がれました。


✅ まとめ

北里柴三郎は、日本の官立医療制度に頼ることなく、自らの信念と私財で医学の道を切り拓いた先駆者でした。
「自由な研究」「実践的な教育」「予防医療の普及」を重視し、研究所と教育機関を自分の手で創設するという行動力は、今も医学界で高く評価されています。
彼の生涯は、「志があれば、組織に属さずとも国を動かせる」という強烈なメッセージでもあります。

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まとめ

北里柴三郎は、「破傷風血清療法の確立」という世界的業績を残しながらも、ノーベル賞から外されるという理不尽な扱いを受けました。しかし彼は、ドイツで学んだ衛生観念の重要性を日本に持ち帰り、国家の健康を守る“予防医学”の確立に尽力します。
さらに、その信念は人材育成にも向けられ、福澤諭吉の支援を受けて渡独した経験を胸に、今度は自ら私財を投じて民間の医学教育機関を設立し、多くの後進を育てました。

名声や権威に縛られることなく、「本当に必要な医療とは何か」を問い続けた北里の姿勢は、現代の医療・教育・研究の在り方に深い示唆を与えてくれます。
知られざる逸話の中にこそ、北里柴三郎という人物の真の偉大さが宿っているのです。


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