本多忠勝の有名な話として挙げられるのは、「三方ヶ原の戦い」におけるエピソードです。この戦いは1572年に行われ、徳川家康が武田信玄の大軍と対峙したものでした。
三方ヶ原の戦い: 武田信玄の軍勢が浜松城を攻めるために迫った際、家康は自ら城を出て迎え撃つことを決意しました。しかし、武田軍の勢力は圧倒的であり、徳川軍は窮地に立たされました。このとき、本多忠勝は家康を守るために奮闘し、その忠義と勇敢さが際立ちました。
特に有名なのは、家康が退却する際に忠勝が殿(しんがり)を務め、追撃してくる武田軍を相手に果敢に戦った場面です。忠勝は敵を寄せ付けず、家康の無事な退却を確保しました。このエピソードは、忠勝の戦闘能力と忠誠心の高さを示すものであり、彼が「徳川四天王」の一人と称される所以でもあります。
このような話は有名ですが、今回はあまり知られていない話に焦点を当ててみます。
伝説の槍使いとしての名声
本多忠勝(1548年 – 1610年)は、その卓越した槍術で広く知られていました。彼の槍使いとしての名声に関する詳細なエピソードをいくつか紹介します。
鹿角槍と呼ばれる特別な槍
本多忠勝が使用した槍は「鹿角槍(ろっかくそう)」と呼ばれ、非常に重く、通常の武将では扱うことが困難なものでした。この槍は2.7メートル以上の長さを持ち、重心が計算されて作られていたため、忠勝はこの槍を使って卓越した技を繰り出すことができました。
戦場での活躍
- 姉川の戦い(1570年): 姉川の戦いで、忠勝は徳川軍の一員として参戦しました。この戦いでは、彼の槍術が光り、敵を圧倒する場面が多く見られました。彼の勇猛さと槍の使い方が味方を鼓舞し、敵に恐怖を与えました。
- 三方ヶ原の戦い(1572年): この戦いでも、本多忠勝の槍術は重要な役割を果たしました。家康が武田信玄の軍に大敗を喫した際、忠勝は家康を守りながら退却しました。彼は追撃してくる敵をその卓越した槍技で退け、家康の命を救いました。
- 一の谷の戦い(1584年): 小牧・長久手の戦いと並行して行われた一の谷の戦いでは、忠勝は再びその槍術を披露しました。敵陣に突撃し、圧倒的な戦力差にもかかわらず多くの敵を討ち取ったと言われています。
戦場で無傷の伝説
本多忠勝の槍使いとしての名声は、彼が戦場で一度も傷を負わなかったという伝説にも由来しています。彼は常に最前線で戦い、多くの敵を討ち取る一方で、自身は無傷で戦場を離れることができました。このことから、彼は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とも称えられました。
武芸者としての評価
本多忠勝の槍術は、戦国時代の他の武将たちからも高く評価されていました。彼の名声は徳川家康だけでなく、多くの同時代の武将たちにも知れ渡り、その技量は広く認められていました。
鎧と兜の装備
忠勝はその槍技だけでなく、重厚な鎧と兜を装備して戦場に立ちました。彼の鎧は非常に重く、それを身に着けながら自在に動き回ることができたのも、彼の身体能力の高さと槍の扱いに長けていたことの証です。
本多忠勝の槍使いとしての名声は、彼の数々の戦場での活躍と無傷の伝説によって築かれたものであり、その技量と勇猛さは今日でも語り継がれています。
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戦いでの不死身の伝説
本多忠勝は、数多くの戦闘に参加しながらも一度も傷を負わなかったという伝説を持つ武将として有名です。この「不死身の伝説」に関する詳細を以下に紹介します。
戦いでの無傷の伝説
- 三方ヶ原の戦い(1572年): この戦いでは、徳川家康が武田信玄の軍に敗北を喫しましたが、本多忠勝は家康を守りながら退却しました。忠勝は追撃してくる敵をその卓越した槍技で退け、家康を無事に浜松城まで戻しました。この戦いでも忠勝は無傷であり、その武勇が再認識されました。
- 長篠の戦い(1575年): 長篠の戦いは、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破った戦いです。この戦いでも本多忠勝は前線で活躍し、多くの敵を討ち取りましたが、自身は傷を負いませんでした。鉄砲隊が活躍したこの戦いで、彼の槍使いとしての技術は敵を圧倒し、無傷での帰還を果たしました。
- 小牧・長久手の戦い(1584年): 小牧・長久手の戦いでは、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍が激突しました。この戦いでも、本多忠勝は秀吉軍との激しい戦闘に参加し、その卓越した槍技で多くの敵を打ち破りました。この戦いでも無傷であったことから、彼の「不死身」の伝説がさらに強固なものとなりました。
- 一次上田合戦(1585年): 真田昌幸が上田城で徳川軍を迎え撃った際、本多忠勝も参戦しました。真田軍の巧妙な防御戦術により徳川軍は苦戦しましたが、忠勝は敵の猛攻を防ぎつつ無事に戦線を維持しました。この戦いでも無傷であったことは、彼の名声を高める一因となりました。
忠勝の無傷の理由
- 卓越した戦術眼と武術: 本多忠勝は、戦術眼と武術に非常に優れており、敵の攻撃を予測し回避する能力に長けていました。これにより、戦場での危険を最小限に抑えることができました。
- 強力な武器と防具: 忠勝が使用していた「鹿角槍」は非常に重く、彼の戦闘スタイルに特化した武器でした。また、彼の鎧は非常に強固であり、敵の攻撃から彼を守るのに十分なものでした。
- 高い身体能力と反射神経: 忠勝は非常に高い身体能力と反射神経を持っており、これにより敵の攻撃を回避し反撃することができました。彼の動きは非常に迅速で、敵に対して圧倒的な優位を保ち続けました。
- 強い精神力と集中力: 戦場での忠勝は、常に冷静で集中力を切らさなかったと言われています。これにより、戦闘中にミスを犯すことなく、敵の動きを的確に捉えて反撃することができました。
家康との信頼関係
本多忠勝は、徳川家康にとって最も信頼できる家臣の一人でした。彼の不死身の伝説は、家康との深い信頼関係の象徴でもありました。家康は忠勝の無傷の活躍を見て、彼を「天下無双の勇士」と称えました。
本多忠勝の「不死身の伝説」は、彼の卓越した戦術眼、身体能力、武術、精神力に支えられたものであり、戦国時代を生き抜いた彼の驚異的な強さと幸運を物語っています。
真田幸村との因縁
本多忠勝と真田幸村(真田信繁)の因縁は、戦国時代から江戸時代初期にかけての両家の関係や戦場での交錯に由来します。この因縁に関する詳細を以下に示します。
三方ヶ原の戦い(1572年)
本多忠勝と真田昌幸(幸村の父)は、三方ヶ原の戦いで対峙しました。この戦いで徳川家康が武田信玄に敗北を喫した際、本多忠勝は家康を守りながら退却しました。真田家はこの時、武田家に属していたため、両家は敵同士でした。
第一次上田合戦(1585年)
1585年、徳川家康は真田昌幸が治める上田城を攻めました。本多忠勝もこの戦いに参戦しましたが、真田昌幸の巧妙な防御戦術により徳川軍は大敗を喫しました。特に真田昌幸の巧妙な戦術と信繁(幸村)の活躍により、徳川軍は大きな損害を受けました。
第二次上田合戦(1600年)
関ヶ原の戦いに向けた前哨戦として、再び徳川軍は上田城を攻めました。この時、真田昌幸と真田幸村が上田城を守り、本多忠勝は徳川軍の一員として参戦しました。真田軍は再び巧妙な防御戦術を展開し、徳川軍を撃退しました。この戦いで、本多忠勝は真田幸村の戦術に対する高い評価を持つようになりました。
真田信之と本多家の縁組
本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)は、真田信之(真田幸村の兄)に嫁ぎました。この縁組により、本多家と真田家の関係はより深まりました。小松姫は非常に聡明で勇敢な女性であり、信之との間に多くの子供をもうけました。彼女の存在により、両家の関係は強固なものとなりました。
大坂の陣(1614-1615年)
大坂の陣では、真田幸村が豊臣方として参戦し、本多忠勝は徳川方としてその最前線に立ちました。特に大坂夏の陣では、真田幸村の猛攻に対して徳川軍は苦戦を強いられました。幸村は徳川家康の本陣にまで迫るほどの勢いを見せましたが、最終的には討ち死にしました。本多忠勝はこの戦いには高齢のため直接参加していなかったものの、徳川家の重要な一員としてその戦況を見守っていたことでしょう。
徳川家康と真田昌幸の評価
本多忠勝と真田幸村の因縁は、両家の主君である徳川家康と真田昌幸の評価にも深く関わっています。家康は真田家の戦術と武勇を高く評価しており、その影響で本多忠勝も真田家に対する一目置く存在となっていました。真田家の巧妙な戦術と果敢な戦いぶりは、徳川家中でも特別な存在として認識されていました。
本多忠勝と真田幸村の因縁は、戦場での対峙だけでなく、婚姻関係や家同士の深い関係に基づいています。この因縁は、戦国時代の複雑な人間関係と戦略の一端を象徴しています。
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家康への忠誠心
本多忠勝の徳川家康への忠誠心は、数々のエピソードを通じて示されており、彼の忠義心と献身がどれほど深かったかを物語っています。以下にその詳細を示します。
三方ヶ原の戦い(1572年)
三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に敗北を喫した際、本多忠勝は家康の護衛を務めました。家康が退却する中、忠勝は殿(しんがり)を務め、追撃してくる武田軍から家康を守り抜きました。この時、忠勝は自身の命を顧みず、家康を安全に逃がすために戦い続けました。
長篠の戦い(1575年)
長篠の戦いでは、徳川家康と織田信長の連合軍が武田勝頼の軍を撃破しました。この戦いでも本多忠勝は前線で戦い、家康の信頼を裏切らない勇敢な姿勢を見せました。彼の活躍により、家康は忠勝をますます信頼するようになりました。
本能寺の変(1582年)
1582年に起こった本能寺の変で織田信長が討たれた際、徳川家康は命の危険にさらされました。この時、本多忠勝は家康を護衛して、伊賀越えという危険な脱出行を成功させました。忠勝は、家康が無事に領地へ戻るために尽力し、その忠誠心が家康の命を救いました。
小牧・長久手の戦い(1584年)
小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対峙しました。本多忠勝はこの戦いでも家康の側近として活躍し、敵軍を相手に奮戦しました。彼の戦いぶりは家康の信頼をさらに深めるものでした。
関ヶ原の戦い(1600年)
関ヶ原の戦いでは、徳川家康が東軍の総大将として西軍と戦いました。本多忠勝は家康のために勇敢に戦い、東軍の勝利に貢献しました。特に、この戦いで忠勝が果たした役割は重要であり、家康はその功績を高く評価しました。
幕府設立後の忠義
徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた後も、本多忠勝の忠誠心は変わりませんでした。彼は家康の信頼する家臣として、幕府の安定に貢献しました。また、忠勝の息子である本多忠政も家康に仕え、その忠誠心を引き継ぎました。
家康の信頼と評価
徳川家康は本多忠勝の忠誠心と戦功を高く評価し、彼を「徳川四天王」の一人に数えました。家康は忠勝を「天下無双の勇士」と称し、その勇敢さと忠義心を賞賛しました。忠勝の存在は、家康にとって大きな安心材料であり、彼の忠誠心が家康の成功に大きく寄与したことは間違いありません。
本多忠勝の家康への忠誠心は、数々の戦いを通じて示され、家康の信頼と評価を勝ち得たものでした。その忠義心と勇敢さは、戦国時代の武将の中でも特に際立っており、今日でも語り継がれています。
まとめ
本多忠勝は、徳川家康に対する揺るぎない忠誠心と卓越した武勇で知られる戦国時代の名将でした。彼の忠誠心は、数々の戦いで家康を守り抜いたエピソードによって証明されています。三方ヶ原の戦いや長篠の戦いでは、忠勝は常に最前線で戦い、家康の命を救いました。また、本能寺の変後の危機的な状況でも、忠勝は家康の護衛として伊賀越えを成功させました。小牧・長久手の戦いと関ヶ原の戦いでも、忠勝は家康の信頼を裏切らない勇敢な戦いぶりを見せました。
家康が征夷大将軍として江戸幕府を開いた後も、本多忠勝の忠誠心は変わらず、幕府の安定に大きく貢献しました。家康は忠勝を「徳川四天王」の一人に数え、その功績を高く評価しました。本多忠勝の存在は、家康にとって大きな安心材料であり、彼の忠義心と勇敢さは家康の成功に大きく寄与しました。
このように、本多忠勝の生涯は、戦国時代の武将としての理想を体現したものであり、その忠誠心と武勇は今日でも語り継がれています。
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