🌸「日本初の女子留学生として6歳でアメリカに渡った」
内容詳細:
津田梅子は、1871年(明治4年)、わずか6歳にして岩倉使節団に随行し、日本政府によって派遣された最初の女子留学生としてアメリカに渡りました。当時の日本では「女性が学ぶ」という文化すらほとんど存在せず、その中で彼女は極めて異例の存在でした。
アメリカでは、現地の家庭に預けられて英語とキリスト教的価値観を学び、女性としての知識と品格、そして教育の大切さを身をもって経験します。11年間の滞在を経て帰国した津田梅子は、後に津田塾大学(旧・女子英学塾)を設立し、日本の女子教育の礎を築いた人物として語り継がれています。
「犬を愛する動物好き」だった
津田梅子は、女子教育の先駆者として厳格なイメージを持たれることが多い人物ですが、私生活では深い動物愛を持つ優しい一面がありました。中でも特に知られているのが、犬をこよなく愛していたことです。
東京・麹町にあった彼女の自宅では、複数の犬を飼っており、犬を“家族の一員”として大切に扱っていたと伝えられています。彼女は忙しい教育者としての日々を送りながらも、犬と過ごす時間を何よりも大切にしており、日々の散歩や食事の世話は欠かさなかったといいます。
犬たちには名前をつけ、まるで子どもに語りかけるように接していたという逸話も残されており、その様子は周囲の人々にもよく知られていました。実際、津田をよく知る関係者の記録には「先生は犬を話し相手にされていた」との証言も見られます。静かな人格者としての津田梅子像に、温かみのある人間性を加えるエピソードといえるでしょう。
また、この動物愛は、彼女の教育観にも通じていると言われています。生徒たちに対しても、厳しさと同時に思いやりと理解を大切にした教育方針を貫いており、動物への接し方と共通する「他者への優しさ」が見て取れます。
生涯を通じて独身を貫いた津田にとって、犬との穏やかな日々は心の支えとなる大切な時間だったのかもしれません。
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「最初の留学先」でホームシックに苦しんでいた
津田梅子は、1871年(明治4年)、わずか6歳という幼さでアメリカ留学に旅立ちました。当時、彼女は岩倉使節団に随行した日本最初の女子留学生の一人であり、他の留学生の多くが10代後半であった中、津田は群を抜いて年少でした。
アメリカでは、ワシントンD.C.在住のカロライン・オグデン夫妻の家庭に預けられ、完全な英語環境の中で生活を始めます。言葉も文化も違う中で、身近に日本人の支えはおらず、連絡手段も限られていたため、梅子は強い孤独感と不安感に苛まれるようになりました。
記録によると、特に最初の数年は涙に暮れる日々が続き、食事や睡眠にも支障が出るほどの深刻なホームシックを抱えていたといいます。オグデン夫妻は熱心に彼女を支えましたが、異国の暮らしに適応するには時間が必要でした。ときには「帰りたい」と書かれた手紙もしたためたとされ、6歳の少女にとってはあまりに過酷な経験だったことがうかがえます。
しかし、梅子は徐々に適応し、英語を習得し、キリスト教的価値観を吸収しながら成績優秀な学生へと成長していきます。この困難な初期体験は、のちの教育者人生において「異文化理解」「精神的な強さ」「自己鍛錬」の土台となりました。
彼女が生涯にわたって語ったことの少ないこの初期の苦悩は、教育において生徒の心に寄り添う力、そして「女性も困難を乗り越えられる存在である」という信念の原点とも言えるのです。
「津田塾」創設前に何度も資金難に苦しんだ
津田梅子が女子高等教育の必要性を実感し、「自らの理想とする女子教育機関をつくりたい」と志したのは、帰国後に華族女学校で教鞭を執り始めた20代後半の頃でした。しかし、彼女のこの壮大な夢には、最大の壁——資金不足が立ちはだかります。
当時の明治日本には、「女子が高等教育を受ける必要はない」とする価値観が根強く残っており、教育への出資者や理解者は極めて少数でした。津田は自らの貯金を切り崩すだけでなく、再びアメリカを訪れ、留学時代の人脈を頼りに募金活動を開始します。
特にアメリカでは、キリスト教団体や元ホストファミリー、婦人団体などを一軒一軒回り、日本女性が教育を受ける意義を英語で訴え続けたといいます。旅費にも苦労し、衣食住を切り詰めながらの説得行脚は、まさに命を削る覚悟の行動でした。
それでも資金はなかなか集まらず、「塾開設は無理かもしれない」と何度も思い悩んだと言われています。帰国後も、政府や実業家への資金要請を続け、数年間にわたり二進も三進も行かない状態が続きました。
それでも津田は決して諦めませんでした。「教育は日本女性の未来を変える」との信念を貫き、ようやく1900年(明治33年)、東京・麹町にて「女子英学塾(現在の津田塾大学)」を開校させます。わずか10数人の生徒からの出発でしたが、彼女の教育理念に共感する生徒と支援者は次第に増えていきました。
津田塾の裏には、幾度も資金難で挫折しそうになりながらも、女性教育に人生を捧げた梅子の不屈の努力があったのです。
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「華族令嬢の教育係」だったことがある
アメリカ留学を終え、18歳で帰国した津田梅子は、しばらく日本語の再習得に励んだ後、明治政府によって設立された「華族女学校(現在の学習院女子部の前身)」に英語教師として勤務することになります。
この学校は、明治維新後の新しい国家体制の中で、皇族・公家・旧大名家などの上級階級の子女(いわゆる「華族令嬢」)に西洋式教養を身につけさせるために設立された、非常に格式の高い教育機関でした。
津田はここで、英語や西洋文化、礼儀作法を中心に授業を行い、当時の日本の「女性教育の最前線」に立つ存在となります。教え子の中には、後に皇室に関係する人物も含まれていたとされ、非常に高い品位と教養が求められました。
しかし、津田梅子はこの職務にやりがいを感じつつも、内心には複雑な思いを抱いていたとも言われています。なぜなら、この学校の教育方針は、あくまで「良妻賢母」や「社交的な貴婦人」としての育成が目的であり、梅子自身が理想とした「女性の自立」や「知的探究」を目的とする教育とは根本的に異なっていたからです。
そのため彼女は、授業以外の場でも生徒に対して知的好奇心を刺激するような言葉をかけたり、女性としての尊厳や可能性について話す機会を大切にしていました。こうした経験は、後に自らが設立する「女子英学塾(現・津田塾大学)」において、より自由で主体的な女子教育の場を作りたいという原動力となったのです。
つまり、華族令嬢の教育係という一見華やかに見える立場の裏には、梅子自身の理想と現実とのギャップに葛藤しながらも、教育者としての使命を全うした姿があったのです。
まとめ
津田梅子は、日本初の女子留学生として6歳で異国に渡り、深い孤独とホームシックに苦しみながらも、強い信念で学び続けました。帰国後は華族令嬢の教育に尽力しながらも、「女性がもっと自由に学び、人生を選べる社会を作りたい」という志を抱き続けます。
犬を愛し、穏やかで人間味あふれる一面を持ちながら、結婚という選択をあえてせず、教育にすべてを捧げた津田梅子。その生涯は、資金難や社会的偏見に幾度も直面しながらも、「女子英学塾(現・津田塾大学)」という教育の場を築きあげることで、日本の女性の未来に大きな光をもたらしました。
彼女の人生には、教科書には載らない“人間としての魅力”があふれています。だからこそ今も、多くの人々に語り継がれ、敬意を集め続けているのです。
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